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論文など

こどもの個性を受け入れて 育児を

 

福永寿則  

 

 今年の2月12日に、30年度高知県安心子育て応援事業の一つとして、幼児を育児中の母親を対象に講演する機会を与えられた(ホッとMaMaco主催)。産婦人科とは少し内容が離れるが、そこで「こどもの個性を受け入れて育児を」と題して話した内容を紹介させていただく。

 「夢を持って、あきらめず頑張り続ければきっと夢はかなう」「やればできる」「報われない努力はない」「できないのは努力が足りないからだ」。これらの言葉は努力でき、そしてその夢(目的)が叶った人が吐く言葉だ。人は平等には生まれてこない。家庭や社会などの環境、持って生まれた資質、誰もがクローン人間ではなくそれぞれが個性を持っている。高校野球に打ち込んでも甲子園に行ける者は多くなく、プロ野球に進める者はさらに少なくなる。いくら努力をしたからといってイチローや大谷になれるわけはない。

 「運命の子トリソミー、短命という定めの男の子を授かった家族の物語」(松永正訓)自発運動なくコミュニケーションが取れず眠り続ける13トリソミーのこども、介護のため眠らない母親。しかし、両親は短命と言われた子どもが生きていてくれること、一緒に入浴できること、外出できること、日々の存在に幸せを感じ、親にしか分からない子どもの反応を喜んでいる。

 「この子らを世の光に」知的障碍者福祉の父と言われた糸賀一雄の言葉である。「謙虚な心情に支えられた精神薄弱な人びとのあゆみは、どんなに遅々としていても、その存在そのものから世の中を明るくする光がでるのである。単純に私たちはそう考える。精神薄弱な人びとが放つ光は、まだ世を照らしていない。世の中にきらめいている目もくらむような文明の光輝のまえに、この人びとの放つ光は、あれどもなきがごとく、押しつぶされている。 ・・・(略)・・・ 人間のほんとうの平等と自由は、この光を光としてお互いに認めあうところにはじめて成り立つということにも、少しずつ気づきはじめてきた。」

 「されど愛しきお妻様」(鈴木大介)発達障害の妻は幼少時代は家族に、社会に出てからは周囲から否定され続けてきた。結婚後に脳梗塞後高次脳機能障害となり後天的発達障害というような状況を経験したルポライターである夫は、なんでできないのって言われても、できないものはできないことに気づく。「僕はこれまでの記者活動の中で・・・(発達障害という診断はついていないが)多くのお妻様のような人に出会ってきた。そして彼ら彼女らはほとんどの場合、社会の無理解に苦しみ、攻撃され排除され孤立し、それと同時に周囲の家族や友人や支援者を傷つけたり、そんな自分が嫌で自分自身を傷つけたりと、七転八倒を繰り返していた。確かに発達障害を抱えた大人は、被害者像と加害者像の両面を併せ持つことが多い。けれども、ちょっとしたコツさえつかめば、家族も含めてその障害と共存して平和に家庭を運営していくことは、十分に可能なのではないか。」

 色覚異常で赤色と青色の区別が難しい人に「なぜ見えないの」、聴力障碍の人に「なぜ聞こえないの」、足に麻痺がある子どもに「何でもっと速く歩かないの」とは人は言わない。しかし、子どもに勉強を教えていて「何で分からないの」、部屋を片付けない子どもに「散らかっているでしょ。さっさと片付けなさい」、親の思い通りにならない子どもに「何で素直に言うことが聞けないの」・・・。

 個性にはいろいろな個性がある。未熟児、障碍児、病気、発達障碍、背が低い・高い、LGBT、性同一性障碍、かけっこが遅い、勉強ができない、動作が遅い、・・・等々。生まれた時から目立つ個性もあるし、徐々に表れてくる個性もある。「うちの子は天才?」、100%天使に見えていても、だんだん親の期待に沿わない個性も出てくる。

しかし、どの子どもも親から与えられた資質(+ 神様からのプレゼント)を持って生まれ、与えられた環境で育つ。どの子どもも、無力で無垢である分100%親を信頼し、自分を委ね、また自分の存在を親に喜んでもらいたいと思っている筈。決して親に反抗しようとか、困らせようとか、親に嫌われたいとかは思っていない。しかし、親を悩ませ、また自分自身を苦しくする個性が現われてくる。

 子どもが何かできない時に、できない子どもを責めるのではなく、できない子どもに寄り添って、一緒にできないことに向き合う。①できないことができるようになる努力・工夫をする。しかし、②それでもできないならそれを認めた上で、そのことが生活の支障にならないようにカバーする他の方法を考える。親の期待する状態を目標にするのではなく、子どもの個性を出発点として前を見る。「ダメな子ね」「何でできないの」など否定的に扱われた子どもは自尊感情・自己肯定感が育たない。「ほめて伸ばす」 子育てにおいては、周囲・世間との比較ではなく、こどもの個性を認めたうえでの関わりが大事。これには時に忍耐も必要となる(親の期待に沿わないことも多い)。

 以上のような話をさせていただいて、最後に鮫島浩二の詩「わたしがあなたを選びました」を朗読し、出産時の「ただ無事に生まれてきてくれさえすれば」という願い、生まれ出た赤ちゃんの顔を見た時の、そこに赤ちゃんの存在があるだけで無上に幸せであった気持ちを思い出していただいた。

 

 今回の私の話に関連する内容で、4月に話題になったことがある。平成31年度東京大学学部入学式における上野千鶴子氏の祝辞である。一部抜粋させていただく。

『・・・あなたたちが今日「がんばったから報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持って引き上げ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われない人、がんばろうにもがんばれない人,がんばり過ぎて心と体をこわした人・・・達がいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせ私なんて」とがんばる意欲をくじかれる人達もいます。あなたたちのがんばりを、どうか自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれない人々を貶めるためではなく、そういう人々を助けるために使ってください。そして、強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。・・・』

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